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音楽コラム集

【コラム】映画研究部NOAH 第16回 「ウッドストック」1970年アメリカ映画

2013.01.08

18_14-15_1.png ウッドストック・フェス  ウッドストックは、1969年8月に行われたロックフェスの通称だ。正式には、ウッドストック・ミュージック・アンド・アート・フェスティバルという。ウッドストックはニューヨーク郊外の町の名前で、当時はボブ・ディランが居を構えていた。ややこしいが、開催地はウッドストックではなく、同じくニューヨーク州郊外ベセルにある農場。アメリカ中からヒッピーが集まるときいた地元の反対にあい、直前で開催地が変更になったのだ。出演者はアメリカ、イギリスから30組以上のミュージシャンがそろった。チケットの売上は18万枚だったが、当日は30万人以上が集まった。フェンスを破壊して勝手に入場した者がほとんどで、チケット代を払った人も皆無。結果的に入場無料になったイベントでもある。とはいえ、集客の規模に対して大きな事故や事件が起こらなかったことは、後日メディアでも評判を呼んだ。 18_14-15_2.png 記録映画「ウッドストック」  翌年公開された記録映画は大ヒットし、現在でもロック映画の原点とされている。筆者は、中学生のころに初めてこれを見た。ダラダラしていてちっとも先に進まない映画で、1組目が登場するまで20分くらいかかる。映画の中盤から、ザ・フー、スライ&ザ・ファミリー・ストーン、サンタナ、テン・イヤーズ・アフターなどが熱演を繰り広げる映像が続き、凄いと言われるジミ・ヘンドリックスの「アメリカ国家」の映像がいまいちピンとこなくて、「背伸びしちゃったな」とわからない自分にガッカリした。ウブな中坊としては、会場に集まった若者たちの映像が衝撃的だった。たくさんの男女が全裸で川で水浴び。雨が降ればドロドロになって遊んでいるし、「自然が一番」とか言っているし、あきらかにマリファナとLSDがバキバキに効いている人も映る。「こんな怖い会場には絶対に行きたくない(全裸除く)」と思った。 GIVE PEACE A CHANCE  ウッドストックがロック・コンサートなのに、全裸で水浴びしちゃう理由を知るには、ヒッピー文化を知らなければいけない。1967年1月、人間性の回復を謳った集会、ヒューマン・ビーインがサンフランシスコで開催された。集まったのはビート文学を代表する作家、地元のロックバンド、そしてヒッピーだった。マリファナとLSDをばっちりキメてるものも多数いた。ベトナム反戦運動は、ロック、文学、音楽、ドラッグなど様々な文化を吸収していき、一大カウンターカルチャーを形成した。その盛り上がりの背景には、1964年の公民権法制定が大きく影響した。差別に立ち上がり勝利した黒人たちの姿は、自分たちも何かを変えられるかもしれないという希望を与えた。そこで、ヒッピーが生まれた。彼らは徴兵を拒否し、ベトナム派兵に反対した。伝統的な生活様式を拒否し、東洋の禅やインド哲学を積極的に取り入れた。スローガンは「愛(というかフリーセックス)と平和、自由と音楽」だった。ヒューマン・ビーインは、ヒッピーが世間に注目されるきっかけとなった。集会は各地にひろがり、いくつものコミューンが生まれた。そこで思想、音楽、食事、ドラッグ、彼氏彼女を分かち合ったのだ。 ウッドストックへの布石  1967年6月16日から3日間、カリフォルニア州モンタレーで、モンタレー・ポップフェスティバルが開催された。基本的にはロック音楽のイベントだが、ソウル、ジャズ、民族音楽、トラディショナル・フォークのミュージシャンも出演した。このイベントで注目を集めたのが、ジャニス・ジョプリン、ジミ・ヘンドリックスだった。ソウル歌手、オーティス・レディングがMCで言った「愛し合ってるかい?」は、このイベントのすべてを集約した言葉だった。忌野清志郎が言っていたのも、これの引用だ。モンタレーポップは、ロック・コンサートとヒューマン・ビーインが融合した初めてのイベントとなった。ヒッピーは、マリファナの煙でふやけた脳みそで、ミュージシャンと音楽を共有している感覚を味わった。以降、ロック・コンサートはヒューマン・ビーインと同じで、音楽も共有するものとヒッピーたちは考えるようになった。 Long Hot Summer Night  サンフランシスコを出てみれば、アメリカは殺伐とした空気に溢れていた。ケネディ、マルコムX、キング牧師、ケネディの弟ロバートと、変革をリードした者が次々と暗殺された。国民の間には、国家不信が広がっていた。南部では依然として黒人差別が続き、ブラック・パンサー党などの黒人過激派が登場。各地では、反戦デモ、差別撤廃のデモが相次ぎ、警官と市民の衝突になることも多々あった。そして、戦争のためにヒッピーの何倍もの数の若者たちがベトナムへ送られ、血を流し、命を落としていた。良識的な大人から見ればヒッピーは現実から目を背けているとしか思えなかったし、大多数のヒッピーがその通りだった。いずれはヒッピーなんてやめて髪を切り、企業に就職するのが目に見えていた。 幻想と現実  そして、69年8月のウッドストックだ。ヒッピーにとって、これはコンサートではなく、大規模なヒューマン・ビーインだった。金を払ってコンサートを見に来たんじゃない。音楽を共有するためにやってきたのだ。チケット代なんて論外とばかりにフェンスは壊された。ドラッグと食事を共有し、みんなで裸になって川に飛び込んだ。  同時に、ヒッピーを取り巻く矛盾も浮き彫りになる。ザ・フーの出演時、曲間の沈黙を狙って活動家がステージに上がり、「このイベントはクソだ!この瞬間にも監獄につながれているやつがいるんだぞ!」と演説を始めた。ピート・タウンゼントは、彼をギターで殴り倒し「俺のステージに勝手に上がるヤツは殺す、本気だ」と言い放った。しかし、ピートの心中はこの活動家と一緒だった。ベトナム戦争と、相次ぐ反戦、差別撤廃のデモ、活動家の不当逮捕は揺るぎない現実だった。目の前のヒッピーはヘラヘラ笑うだけ。ピートは怒り心頭に達していた。そんな彼の気持ちに気付かぬまま、観衆はピートの行動と発言に喝采を送った。ウッドストック、ひいてはヒッピーの抱える問題の本質を象徴するこの事件は、映画には収められていない。演奏終了後、ピートはその夜に使っていたギターを、苛立ちを押さえきれないように客席に放り投げて去った。  そして、ジミのアメリカ国家。彼が繰り出すギターの轟音とフィードバックは、明らかに空爆と機銃掃射の暗喩だった。しかし、彼の真意に気付いている観客は皆無だった。音楽を一方的に共有している気になっているヒッピーには、矛盾に気付くきっかけすらなかった。 To Be Continiued  何も知らずに映画「ウッドストック」を見れば、全編を覆う楽観的なムードを楽しめるだろう。そのように編集されているし、それが監督の意図だ。が、サンタナのように夢見がちに振り返る者もいれば、ピートのようにいまだに怒りを隠さない者もいる。ラヴ&ピース世代の到達点とされるウッドストックは、その実、ヒッピーの共有する幻想が、会場の外の現実とあきらかなズレを見せた第一歩でもあった。4ヵ月後のオルタモント・スピードウェイでのローリング・ストーンズのコンサート、70年のワイト島フェスは、ウッドストックの行く末を見るようで興味深いイベントなのだが、スペースが尽きた。それについては別の機会に譲ろう。 (NOAH BOOK ��橋真吾) 18_14-15_3.jpg ※画像をクリックすると拡大して表示されます。